ウエストコート

  • 2012.08.01 Wednesday
  • 00:00


日常的に「ベスト」と呼ばれている袖なし上着のことです。


いかにもバーテンダーらしい格好と言えば、


白シャツに蝶ネクタイ、そしてこの「ウエストコート」の三点セットを想像される方も多いでしょう。


ではなぜに「ウエストコート」なのか?


実のところ着ている当のバーテンダーでも「なんとなくそれっぽいから?」という人が多かったりするのですが、


まずお断りしておかねばならないのは、


これはあくまでイギリス発祥の紳士服がヨーロッパを経由して日本にやってきて、


その歴史とルールに基づいた「そもそも話」であって、


さらにこれをモロモロ端折って一バーテンダーが語る、暇つぶしのウンチク話なんですけれども、


という前提。


服飾世界は奥深いですさかい。


して「ウエストコート」ですが、


早い話が「シャツ(いわゆるYシャツ)」なる服はあくまでも下着であって、


これだけ、つまりシャツにネクタイだけでは「フォーマル」としては失格、


ルール違反だからです。


大人の男が袖を通すべき服飾には、ざっくり言えば二種類、


「フォーマル」と「カジュアル」、これは時として「クラシカル」と「モード」とも言われたりもしますが、


基本的に見知らぬ誰かと時と場所を共有する可能性のある公の場では、


「フォーマル」が求められるので、


Barなる大人の集いし社交場では、仮にお客様にあってはカジュアルでウエルカムだとしても、


迎える側の人間は最低限のフォーマルを装うべきである、という背景があります。


そこで選択されたのが「ウエストコート」。


バーテンダーなる職業が、これがもし完全に裏方として作業場で黙々と仕事をするのであれば、


それに特化したユニフォーム、で無くとも服装は自由ってことで良かったのでしょうが


ご存知のとおりバーテンダーは大切なゲストと常に向き合う環境で、


接客と同時に調理もこなす作業者です。


それなりに動きやすく、


さりとてフォーマル基準をクリアするとなると「ウエストコート」がその条件を満たすに最適なアイテムだったのです。


そう言うと必ずつっこまれるのが「ウエストコート」と「ジャケット」の関係性。


「細かいこたぁいいじゃん、ちゃんとしてればいいならジャケット着れば?」


「ウエストコートよりジャケットの方が格が上じゃない?よりキチンとしてそう」と。


そもそも「フォーマルセット」の上位に位置する「スーツ」とは、


元来「ジャケット」「ウエストコート」「パンツ」という、


いわゆる「三つ揃え」をして成立するものであったのですが、


最近では「ジャケット」と「パンツ」のみで良しという風潮なので、


「ベスト?なぜわざわざベスト?ジャケットでいいじゃん?」って発想は分からなくはありません。


そこには時の流れと気候風土に合わせた変化という歴史も関与することなので異論はないにせよ、


重要なのは意味と理由。


そして常識・ルールは守らなければなりません。


セットにすれば「スーツ」と言う「くくり」でまとめられてしまいますが、


「ジャケット」と「ベスト」ではその誕生からしてそれぞれの存在意義が異なるので、


さぁ、ガッツリ端折りますけど、「ベスト」は作業着由来、「ジャケット」は作業着ではありません。


「ベスト」は仕事着、「ジャケット」いやさ「スーツ」と言いましょうか、


これはビジネスマンの方が仕事着として着られるのである意味「仕事着」でも正解ですが、


決して作業着では無く、あくまで人と会うための服です。


で、まぁ難しいこと抜きにして言えば、


どこの調理場にジャケット羽織って料理する調理師さんがいらっしゃいますか?と。


ジャケット羽織ってカウンターに立っているバーテンダーを捕まえて逆に言わせてもらえれば、


調理従事者の自覚はあるのでしょうか?と。


調理従事者の正装は「コート」。


あくまでも「上着」の意を冠した「作業着」。


はい、もうお分かりですね?


「ベスト」の正式名称は「ウエストコート」。


「ウエスト」周りに着用する上着、「コート」。


「フォーマル」の公式を守りつつ作業者が身につけておかしくないアイテムなのです。


「ジャケット」はフォーマルな空間では確かに上位に位置するアイテムですが、


サービスされる側とする側がいたとすれば、される側が着るべきものであって、


ましてや作業従事者が着てるとおかしな格好、という訳。


そうなると「え?タキシードは?高級レストランとかホテルマンってサービスマンもタキシードじゃん?」


とかいう質問もありそうですけど、


ええ、ですから事務方さんならともかく、飲食物を扱う人間は「ジャケット」を着用してないでしょ?


それはあくまでも「タキシード」であって。


「タキシード」こそは作業従事者も着ておかしくない最上級フォーマルですが、


そのシルエットが似ているものの「スーツ」とは全く別次元の服です。


これはもう「ジャケット」と「ウエストコート」の比ではないぐらい細かなルール、


「タキシード」にはちゃんと迎える側と迎えられる側できっちりデザインからして違っていたり、


あるいはその日着る際の時間にも関連した法則、なんてものまであるんですよ?


なんだかもう最近はそういうの、滅茶苦茶な人も多々ですけど。


ちなみに「コックコート」に準じたバーテンダー専用の正装として「バーコート」なる服もちゃんと存在します。


シルエットだけなら「白いジャケット」にも見える「バーコート」ですが、


裏地も無い、パットも無い、と元が作業着に由来したいわゆる「白衣」ですので、


「ジャケット」とは似て非なるものです。


え?「白いジャケット」や「白いタキシード」を着て「これはバーコートです」って仕事してるバーテンダーを知ってる?


面倒くさいから放っときゃいいんじゃないですか?


おそらくは「ちゃんとしてるでしょ?シュッとしてるでしょ?」という見た目だけと言うか、


モロモロ知らないからこそ、そういう格好ができるんでしょうけども。


いやまぁしかし、そんな本質を理解していない人よりちゃんと勉強して実践していたとして、


例えば活動時間を考えて靴はプレーントゥですよとか、


ウエストコートなんだからベルトは使いませんよとか、


シャツやネクタイの形状やら選択やら、


細かなところまで配慮したところで気付いてもらえず、


「オレの行きつけのBarのバーテンダーはジャケット着てるからお前のとこより良い店」みたいなこと言われると、


そりゃ努力してる人達もタメ息しか出ませんわな、と。


して、これは個人的心情ですけども、


どんな格好でも良いとは思うんです。


正味の話が。


それでなくとも「イギリス由来のフォーマル基準」ならば「ウエストコート」選択が良しと言ったって、


これが「イタリア」や「アメリカ」基準でと言い出せば、


根底にある「シャツ=下着」なんて観念すら崩れるわけですし。


嫌なのはですね、「ちゃんとしてる風」で「ちっともちゃんと出来てない」のにドヤ顔のバーテンダーさん。


そもそもなぜ「ジャケット」なのか?は置いといても「ジャケット」を「コート」言うてみたり、


迎える立場にありながらカラーがショールじゃないタキシードだったり、


そこまでやっといて靴がストレートチップだったり蝶ネクタイがフックだったり。


いっそTシャツにデニムで「ウチはラフな店ですから」ってほうがちゃんとしてるし嘘がないじゃん?て。


いい銭とって一流でござい、当店は格好からして正統派ですってんならキチンとしやがれべらんめー、と。


 



どうのこうのと言いましたが、


日本じゃシャツにネクタイ、


最近では御時勢もあって、クールビズに代表されるようなネクタイ無しのスタイルであったとしても、


ビジネスシーンをはじめ、「フォーマル」として許容されることは、


これはまぁ、夏場ともなれば熱帯の気候にも等しい殺人的な天候下においては無理からぬことなので、


ぼちぼちこの国におけるバーテンダーの格好ってのも時代と地域性に合わせて変化しても良い気がする今日この頃。


あくまでも「筋が通っているならば」ってことで。


つまり、何が言いたいかと申しますれば、


ワタクシこの夏「ウエストコート」無しでカウンターに立ってることもあるでしょうけどヨロシクね、


という言い訳でございました、ってオチ。


当店はスタンス的に言えば庶民派のカジュアル店ですさかい、


ちっと意図的にラフで行こうかな?なんて。


だってなんかこんだけざっくばらんにやってるつもりなのに、


まだお堅いとか言われるんですもの。


文字通り胸襟を開くってやつです。


って、まずは物理的なれど。


ま、それとてその日の気分次第ですけれども。


あ、お客様にあられましては基本当店ドレスコードなんぞはございませんのでお気軽に。

知らなくても問題ないけど知っておいて損もないこと。

  • 2012.08.02 Thursday
  • 00:00
 
そうだ京都「に」、じゃない。

「に」はいらない。






トップページが周年ぽくなってるけど特に何かするわけじゃない。





コアラを濡らすとなんか怖い。




夏の営業(暫定)

  • 2012.08.03 Friday
  • 00:00
 
一年経ったら「休む休む」言ってましたんで、

「で?いつ休むの?」と、よく聞かれるのですが、

今のところはこんな感じで行こうかな、と。



花火る?

  • 2012.08.04 Saturday
  • 00:00
 



やらないよ。

紳士論

  • 2012.08.05 Sunday
  • 00:00


先日のこと。


若いバーテンダーが私にこう言うのです。


「あなたが理想としているBarなどとは幻想に過ぎないのではないのか?」


「Barと言わず紳士淑女など存在し得ないこんな世に、真の大人の集いし社交場など成立しようもない」


と。


なるほど。


のっぴきならない事件や事故が連日世間をにぎやかし、


マナーやモラルの欠如した身勝手な人間が街に溢れかえり、


愉しみや嗜みの意味も解せず、刹那的で短絡的、安易で単純な娯楽のみを求め、


優しさも思いやりも無く、


言いたいことも言えないこんな世の中は確かにポイズンかもしれない。


しかし、私はまだ望みを捨ててなどいない。


光はまだあるさ。


まだ。


 


レンタルビデオ店の奥深く。


垂れ下がる「のれん」によって覚悟と資格の無い者の侵入を拒みつつ、


ひっそりと、


慎ましくも勇壮に、


彼の地は存在します。


「アダルトコーナー」


その名の通り大人の空間です。


多くの場合、特に女性の方はこの中の光景を見知らぬ方が大半でしょうが、


あなたの知る「彼」も、


そして「彼」も、


此処に在る時が一番自然体でありながら最も輝いて見える、


男が本来あるべき姿を取り戻し最高に魅力的に映る、


そういう所なのです。


この場所こそが、


この世に残された最後の社交場、


大人たちの嗜み空間、


紳士の集いし場所だと、私はそのように確信しております。


Barにご来店いただくお客様に求める有り様の、


その解がここにある、と言っても過言ではないでしょう。


個々に集いし紳士達はもちろん全くの他人ながらも、


お互いがお互いを尊重し合い、我こそが一歩下がって相手を立てんとする光景には感動すら覚えます。


声を出すこともなく、あるいは目を合わせることが無くとも、


一切の無駄を廃した洗練されし動作をもって相手との距離、そして一挙手一投足にまでおよぶ行動の全てを正確に把握し、


決して相手の領域には干渉しないよう一定の間合いを保ちながら、


内なる情熱の炎を激しく燃やしつつもこれを他者に悟られることなく、


ただ静かに、


そして穏やかに、


さりとて己の求めし作品を貪欲なまでに追求し吟味するその自信に満ちた涼しげな瞳、姿勢、背中、所作には、


初めて目にする者を虜にし、


「あぁ、いつか自分もこんなスマートな振る舞いのできる大人になりたい」と、


憧れを抱かせるに充分な説得力があります。


また、この空間では誰もが慈悲深く心優しき聖者にもなれます。


それは例え他人同士であっても目的を同じとする仲間、


「私」ではなく「我々」であるといった無言のうちの一体感があればこそ成立する心のカタチなのでしょう。


耳をすませば紳士達の声なき会話が聴こえてくるようです。


「おや、これは貸出中か、なかなかお目が高いね。」


「ん?この棚が気になるのかい?いい趣味だ、それでは私は少し外すとしよう。」


「やめときなボウズ、そいつはハズレだぜ?」


「すごいな、あの人、一気にあんなに借りるんだ・・・。」


「おっ、準新作に落ちたか、それでは試してみますかな?」


言うなればここに集いし男達が求めるモノは疑いの余地も無き下劣な欲望に根ざしており、


上品だ高尚などといった価値観とは対極に位置する空間のはずであって、


ともすれば地獄絵図のような光景の中、


鬼どもが暴れ狂う阿鼻叫喚の展開が繰り広げられて不思議でないはずが、


そこにある現実は、


楽園でありサンクチュアリでありエルドラドでありガンダーラ。


一言で言うならば「平和」そのもの。


強要されずとも自発的に生まれる静寂の中、


安易な娯楽ではなく嗜みにまで昇華されたその行動とたたずまい。


空間に満ちるは心地良い緊張感。


その身に沸き立つのは静かなる高揚感。


何よりも「私」を捨てつつも「個」を保ちながら「他」を気遣う、


真の大人たる姿を体現せし精神は、そう、これはもうまさに「愛」。


 


君よ、


諦めることはないのだよ。


この世にはまだ、紳士達が居る。


楽に楽しめ手に入る喜びのその上、


真摯に打ち込んでこそ得られる満足感と充足感、そして悦び、


すなわち嗜みを忘れていない大人達は存在する。


いや、彼の地に足を踏み入れし者であればその経験値に関わらず、


誰もがあのように紳士よろしく振る舞えるということは、


誰の中にも紳士と成りうる可能性が秘められているということなのだから。


そう事は容易なものではないにしろ、


Barの扉を開く人々が、あの「のれん」をくぐる時と同じ心持ちであってくれるようになれば、


Barのカウンターに在る人々の精神が、あの「のれんの中」に在る時と同じく高みへと達すれば、


Barにも未来が、


希望が、


残っていると、


そういうことにはならないかい?


問題は、


彼の地にはバーテンダーに該当する存在は不必要ということと、


言っといてなんだけど我ながら何か違う気がするところなんだがね。



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