真夏のともしび
- 2013.08.01 Thursday
- 18:48
あー、
だからですね、
「探す」と「調べる」、
「知る」ってことと「解る」ってことは別物って話ですよ。
「アハ・トロ ブランコ ブルーボトル」
何気にこの夏テキーラ推しの当店。
リクエストもあって入荷した次第ですが、
実際に検索し、確認していただきたいところですけれども、
大体は以下の通りの説明文が、例えば酒屋の、あるいはBarのブログとかなんとかにゴロゴロ。
●名前の意味は「牛!あっち行け!」。
●「タホ」と呼ばれる石臼のような伝統的道具を使って造られる正統派テキーラ。
●酵母やら熟成法にもこだわっている逸品でゲス、と。
ここにさらに産地や生産者の詳細が添えられて、さも専門的データの出来上がり、
オレわかってるぅ、教えたったぁ、といった感じ。
思考停止させて原文となるオリジナルを皆でグリグリ使い回ししているのであろうことは、
だってまず気になるじゃん?って問題を追求してない時点で丸分かり。
名前ね。
「牛!あっち行け!って意味なんですよ」、じゃねーよ。
いや、だからなんだよ?ってならないか?
どんな状況?どんなエピソード?って。
こんなだったら大変よ?
「タホ」だってさ、「タホ」ってなんだろう?ってならないか?
石臼って書いてあったから石臼なんだろうって?
「タホ」ってコレだぜ?
材質が石なだけで臼じゃねーだろー?コレは。
製造法に関してもそれっぽいけど似たような単語で埋め尽くし、満足されてるようですが、
ココの製法、その最大の特徴は「グラヴィティ・フローシステム」なんじゃないの?
なんでスルーしてるの?わざとなの?
コピー元に無かったから知りませんよ、じゃぁあんまりじゃないですか?
ボトルデザインだってさ、ツッコミどころしかないじゃない?
それもほぼほぼ触れられてないのはやっぱり大元に無かったから疑問にすら思わなかったって?
と、
いう、
モロモロを、
問題提起だけしておいて全く説明せずに終わってみる私。
やだおちゃめさん。
実のところウンチクなんざぁ仕入れてる最中が本人も一番面白いってだけで、
興味のある方は、そりゃ聞いていただければ嬉々としてお答えしますが、大半の一般のお客様は興味無いでしょ?程度にしか思ってないもの。
ひけらかして悦に入るほどこちとら歪んだ人間じゃないのよ?意外と。
それは確かに、ご来店が困難ながらブログを楽しみにしておられる方々には申し訳ないとも思うけど、
アクセス解析で明らかに、頻繁に、ネタだけ拝借するために、利用しているであろう同業者らしき人達の確認は取れているにもかかわらず、
礼を言われるわけでもコメントを書いてもらえるわけでもなく、
いや、コメントとかくださる方は逆にそんなボトルのマニアックデータなんて興味ないだろうし、
その他、一方的に利用するだけの方々にねぇ、いくらネットでございと言ったってねぇ、
こちらはまるで砂場の一人遊びを盗撮されて転売されてるようなもの、
では少々面白くない、というのが本音でございます。
今更ながらにお忘れかもしれないが、私の本職は、目指すべきところは、そもそもブロガーではない。
どうでもいいけどAmazonで見かけたコレは発注すると何が届くのだろう?
私の知らない「アハ・トロ」が世界には存在するらしい。
結局内容としては「アハ・トロ」入荷しました、ってことだけで、
あとはやたらに長いだけの無駄な文章になったことを反省だけはしておきたい。
己を晒すことは恥辱である。
そうだとしても、
語り継がれるべき意思がある。
届けたい想いがある。
私は綴ろう、この、私の物語を。
今となってはもう、ここに至るまで口を噤んでいた己の不甲斐なさこそを、
ただただ恥じながら。
「それは仕組まれし運命」
幼少の頃、親戚の集う場というものが嫌いで仕方がなかった。
父方にせよ、母方にせよ、
眼前に並ぶ男衆の、その頭頂部は一応に寂しかった。
そう、ハゲていたのだ。
私は呪われし因果の鎖に捕らわれたハゲの一族の子として生を受けた。
並んで座るその様子たるや、まさに真珠のネックレスのごとき親戚一同が、
輝きを放ちながら幼い私を捕まえて、皆口々に将来を呪う不吉な言霊を浴びせた。
「ワシは30の頃にはもう、な」
「オレは20の後半にはもう」
「お前もいずれ、そうなるんでぇ」
私はグレた。
「怒り、悲しみ、そして絶望」
この身に流れるハゲの血を恨んだ。
しかし、螺旋の形をして私に組み込まれたそれと同じ、
この呪われた運命に抗い克服した者が一族に存在しないのもまた事実だった。
「どうせ無くなる髪ならば、いっそ・・・」
私は毛根も、頭皮も、キューティクルのことさえ考えず、
あらゆる色に髪を染め、あらゆるヘアースタイルを楽しんだ。
パーマネントにも手を出した。
たとえ髪の寿命を縮めることになったとしても今を謳歌してやろうと思ったのだ。
荒んだ時代を過ごした。
生活は乱れ、酒に溺れ、女に逃げた。
全てを髪のせいにして、全てを髪のあるうちに堪能したい、その一心だった。
裏を返せば、覚悟を決めていたのだ。
髪がなくなる時、
それが私の終わる時だ、と。
「出会い、それは愛」
21歳の春。
私はまだハゲていなかった。
しかし心の髪はとっくに抜け落ちていた。
抜け落ちハゲ散らかしていたのだ。
そんな時出会ったのが薄毛の先輩、Tさんだった。
髪があるだけで精神的ハゲとして成熟しつつある私には、Tさんの背負ってきた十字架の重みが理解できた。
ハゲの苦しみも悲しみも、すでに己のこととして受け止められるまでになっていたのだ。
少なくとも私はそのつもりだった。
Tさんとは言わば戦友、
分かり合っていると、そう思っていた。
ある日のこと、私はTさんにハゲゆく自らの運命を告白した。
「同じなんですよ、僕とTさんは」
同情され、同士として迎い入れてもらうことを願っていた。
心の抱擁を望んでいた。
瞬間、Tさんの拳が私の頬を砕いた。
「ふざけるなっ!オマエにはまだ髪があるじゃないかっ!」
Tさんは叫んだ。
雨の降る路地に倒れ込んだまま、私はただただTさんに圧倒された。
殴られた頬につたう雨がいっそう冷たく感じる。
「今からでも、いや、今だからこそやるんだ、毎日しっかり洗髪して、そして・・・」
「・・・そして?」
「育毛トニックとか使えっ!育毛トニックとか使えよーーー!」
細い路地にTさんの声が何度もこだまし、私の耳と心と、そして毛根に突き刺さった。
「オレの分まで、髪、大事にしてやれよ・・・」
「Tさん・・・」
私を殴ったTさんの拳が、今度は私の手を取り優しく起こしてくれた。
雨に濡れ、冷えきっているはずのその手は、なぜだかとても、温かかった。
本当は雨とか降ってなかったし殴られてもいない。
少し盛った。
「ありがとう、それから、ありがとう」
女がハゲを軽んじるのはなぜだろう?
「男はハゲとか気にしすぎだよ、未練がましく残すぐらいなら剃っちゃえばいいのに」と。
それは女のシミやシワ、お肌のトラブル、
あるいは下腹部に装着された脂肪という名のオサレウエストポーチを気にする気持ちが男には理解できないことと似ている。
子供はハゲを笑い、オモチャにする。
ハゲるかもしれないという不安を、あまりにも強大で絶望的な驚異のもたらす恐ろしさを、想像すらできないからだろう。
無垢ゆえの、他意も無き純真からなる残虐性なのかもしれない。
いや、そうだとしても、だ。
私はハゲを蔑む者を許さない。
ハゲに怯える恐怖を知る者として、ハゲを笑い、ハゲを虐げる者を、私は否定する。
私はただ、たまたまハゲなかっただけのハゲなのだから。
いや、たまたま、などという不確定な偶然の結果などではない。
私の頭皮に毛髪が存在するのは、きっとコレのお陰だ。
「花王 サクセス 薬用育毛トニック」
頭皮の血行促進による抜け毛予防を目的として開発され、
1987年の発売以来愛され続けてきた商品ではあるが、
対ハゲ進行の抑止力としては、正直最も効果の期待できない部類の商品なのかもしれない。
しかし、私はTさんの言葉を信じた。
「カタチに現れた時には遅いんだ、結果が出る前に、先手を打て、安くてもいい、肝要なのは始めること、そして続けることだ」
以来私は毎日の少し念入りな洗髪と、風呂上がりのサクセスを欠かしたことがない。
かれこれ20年近くも。
もはや入浴後にサクセスではなく、サクセスするために入浴していた、と言ってもいいかもしれない。
やがてそれは課題から日課、日課から習慣と馴染んでゆき、まるで呼吸をするかのように、毎日至極自然とサクセスってきた。
そして今日、
40になろうという私の頭皮には、毛髪が生えている。
呪われし血筋の定めた運命に逆らい、因果の鎖を断ち切って。
フサフサ、と言って過言ではないだろう。
私は花王から何か貰っているわけではないし、必ずしもサクセスを使えばハゲないと約束はできない。
ひょっとしたら私がハゲなかったこととサクセスには何の因果関係もないのかもしれない。
それでも、私が考える内、私がハゲなかった理由に関してはこれ以外に思い当たる節がないのもまた事実だ。
いや、誰がなんと言おうと私には確信がある。
断言しよう。
私はサクセスしていたからハゲなかったのだ。
若者よ。
若者達よ。
始めるんだ。
ちっとも大丈夫な今だからこそ踏み出すんだ。
体質や相性もあるだろうからサクセスでなくても良い。
自分にあった適切な君のサクセスを用法・容量を守って正しくお使いください、また問題が発生した場合は医師・薬剤師にご相談くださいますよう願いつつ、
今日もまた、私はサクセスをする。
サクセス。
その意味するところは「成功」「上出来」。
そうだっ!どうだっ!証明しているではないかっ!
私こそが、サクセスそのものではないか。
結局のところこの話に教訓があるとするならば、
何でもないようなことが幸せだったと思う、
みたいなロード的解釈が一般的とはされてるけれど、
旅行から帰ってきて「やっぱり我が家が一番ね」みたいなことなのだろうか?
いやさそもそも旅行に行けたこと自体が幸福なのだから、
旅先でいい思いをしようなんてことこそがおこがましいのだと言ってるのだろうか?
辛い思いや苦労をしなければ日常の幸福をありがたく思うことはできないと言ったって、
物語冒頭の説明にあったように、
「チルチル」と「ミチル」は貧しい兄妹、なのだから、
苦労して一周まわって、やっぱり貧困に着地しても、
「テメーにゃそれでも充分幸せなんだ、身の程を知れ」みたいなヒドイ話なのか?
つまりは幸福なんて価値観のレベルを下げて、
常に幸福を感じていろ、と、
そういうことか?
てことは常に万人がいかなる境遇にあろうとも幸福状態、でいいのか?
ん?
それじゃ幸福なんて言葉に意味も必要も無いじゃないか?
幸福ってなんだ?
あれ?
わからない、わからないぞ?
なんて事をぼんやり考えていたら一日が終わっていた。
とてもよろしくない。
途中で仕入れてしまった、
実は作者のモーリス・メーテルリンクはえげつない反日家で、
できましたら日本人の方々はこの物語を是非とも読んでくれるな、と願っていたことは、まぁ、うん、見なかったことにしよう。
なんにせよ不毛な一日を過ごしてしまったことは否めないが、
これもまた幸福なのだろうか?
どうなんだろう?
ん?
それにしても、だ。
「チルチル」なんて奇妙な名前、
オマケに妹は兄ありきで「ミチル」とか、
ヤッツケなうえに二人揃えばお笑いコンビみたいな、そんな名前を付けられた子供はもう充分に不幸ではないか?
そればかりが気になる。